◆ 幼年期 0歳~3歳 「 誕生そして父の死 」
1912年(明治45年)3月15日 池田三吉、シズの4男として朝鮮慶尚南道晋州の憲兵分隊長宿舎で生れる。
三吉は兵分隊長、10代で番町教会にて受洗。母シズは水戸のクエーカー加藤万治の妻となった叔母の
影響でクエーカーであった。
1914年(大正3年) 4月 父三吉、急性肺炎で召天、45歳
◆ 少年より青春時代 6歳~18歳 「
夢中で面白く、悩ましく。受洗18歳 」
以後1929年まで北海道根室の祖父母のもとに家族で移る。 幼稚園、北斗小学校を経て、札幌に移り、豊水・中央創成小学校から道立札幌工業学校機械科を卒業。北斗小では剣道。札幌では蹴球選手。
1930年(昭和5年) 日本メソジスト教会、大阪、阪南教会にて、釘宮辰生牧師より受洗。
翌年、釘宮牧師の紹介により岡山にて、S・Aスチュアート宣教師の助手となる。
神学校時代21歳~27歳「
無神の友人たちに救いを!旧約の研究から戦争に。信仰の確認 」
1932年(昭和7年) 関西学院神学部予科入学、テニス・コーラスに熱中。
1935年(昭和10年)青山学院神学部本科に転学、自由が丘に母と住む。旧約学浅野順一教授の指導を受ける。
1936年(昭和11年)南京、金陵大學神学院よりの手紙「東三省におけるアヘン吸咽問題を問う」を受け取り、
返事が出来ない。陸軍と満州国の実態に疑念を抱く。
1937年(昭和12年)倫理学教室で反戦、非戦を論ずるが、賛成する者なく孤立。中国への贖罪としての奉仕を考える。青山学院で清水安三(北京崇貞学園)の講演があり、大村勇の紹介で清水と面談。
◆ 北京、上海時代27歳~34歳
「 使命というものに生きようとした。何をなすべきか 」
1938年(昭和13年)3月、青山学院神学部卒業、清水安三の招きとメソジスト教会の任命により北京へ。
崇貞学園、財政商業専門学校、三育学園等で教え、北京YMCAで中国人学生に聖書指導を行う傍ら、
College
of Chinese Studies (華文学校)にて中国語を学習。
1939年(昭和14年)中国では知識層(学生)と軍人が国を動かしていることを知る。輔仁大學歴史系に入学、張教授に「中西交通史」を学ぶ。同年10月、日本YMCAが新たに「大陸事業」を開始、北京に日本人YMCAを設置するに当り、参加を求められ北京YMCA主事補となる。日中青年の為の働きと在中国の米英キリスト教施設の保護が任務であった。北京YMCA会館では華文学校教師による北京語講習会、清水安三が選んだ中国人による中国事情講演会などを行い、米英蘭などの宣教師が持ち込む日本軍との問題解決、中国人YMCAとの友好関係の樹立等多くのプログラムを奈良傳総主事、4人の職員と行った。また多くのボランテイアの助けを得た。
1941年(昭和16年)6月、鳥海道子と結婚、鮮30歳、道子26歳、華文学校内2号宿舎に住む。
同11月華文学校校長代理ヘイズなど北京在住の欧米人「敵国人」として山東省集中営に収容される。
1943年(昭和18年)3月、北支方面軍経理部目黒大尉により、「敵産横領」の罪で北京憲兵隊に拘留される。華文学校施設を将校宿舎とするために追放調書が作られ、4月上旬夫妻に軍より退去帰国命令が出て帰国。日本YMCA同盟に復帰。神奈川県片瀬に住む。齊藤惣一総主事の命令で「日本精神史研究」のため海外同胞中央練成所(荻窪)に出向10月終了。8月長男一亜の誕生。11月上海日本人YMCAの島津岬総主事応援のため出向。妻と長男を残し単身赴任する。途中北京に滞在。清水に送られて来た日本キリスト教団の「大東亜共栄圏のキリスト者への書簡」を読み、怒って破り棄てた。
1944年(昭和19年)2月、上海着、虹口地区、上海日本人YMCA宿舎に住む。夜のプログラムは灯下管制下で、昼のプログラムのために英国租界の聖トリニテイ教会(閉鎖中)牧師館の階下を別館として使用した。昼食会・講演会・バドミントンくらいしか出来なかった。二階には阿部義宗(中支宗教大同連盟)が住んでいた。和平工作の機会を狙いつつある田川大吉郎を訪ねたり、憲兵隊主計中尉として来ていた大和久泰太郎を訪ねたりした。
1945年(昭和20年)5月1日軍の召集を受け、南京金陵部隊に配属される。馬を扱う訓練の後、徐州を経て京漢線、新郷の近くの李村で馬を受領するため待機した後、南に下る。夜のみ行進。広島に「新型爆弾」が落ちたというニュースが伝わる。8月17日か18日頃、信陽を過ぎ河原で休憩中、戦争が終ったというニュースが流れた。昼間の行進となり武漢で武装解除。船で南京に下り、そこから屋根なしの列車で9月13日上海に戻る。熱帯マラリアとアミーバ赤痢で入院・完治。「今、日本は英語でなければ夜も明けぬ」という情報に応じ、英語学校を開校、帰国待機中の人々の入学殺到。奥地より上海に出て来た引揚げ待機者の中に、出産・病気・死亡などの問題が多発、世話する機関がなく上海YMCAは中国人社会に呼び掛け(新聞人・フレンド医療部・中国YMCA)協力を得てそのお世話した。
◆ 敗戦後の日本で(東京)34歳~41歳 「
無からのストラッグル。何をなすべきか 」
1946年(昭和21年)4月、湯恩伯将軍の日僑管理所から通達があり、上海在住者全員の引揚命令が出て帰国。佐世保に上陸。列車で東京まで行くが、車窓から想像以上の焼跡を見て感無量。この間、道子は長男一亜と片瀬から千川の鮮の長兄皓宅に移り、山中湖の小澤開作(北京時代の友人、小澤征爾の父)の別荘で畑をする段取りをしたところに、それまで音信不通であった鮮が帰国。
奈良傳の紹介で早稲田奉仕園の友愛学舎(当時、諏訪町)に住み、夫婦で舎監と寮母を務めた。友愛学舎では、聖書研究を、早稲田教会では協力牧師を務めながら、YMCA同盟に通った。YMCA同盟は焼けて、美土代町の東京YMCA(米軍婦人部隊宿舎に接収中)に仮住居しており、玄関脇の窓に付けた階段から出入りしていた。 無人だった同盟に、末包敏夫が上海から帰り、川口善一も加わって、3人で善後策を練った。齊藤惣一は引揚援護局長官、永井三郎は米軍婦人部隊会館の副支配人、ダーギンは占領軍司令部の一員であった。池田は学生部担当主事となる。機関誌「開拓者」を、紙不足、印刷者不足を克服して9月、貧弱な姿であったが復刊。学生YMCA再建に当っては、東京に「東京基督教学生会」が既に活動しており、近畿・中部・九州・東北に類似の連合組織があった。
9月21日、東山荘で「全国基督教学生協議会」を開催、76名出席。今中次麿、宮本武之助と23日まで、学生と協議し、全国組織へ展開する道筋が開けた。(これを第55回夏季学校とするのは誤り)
1947年(昭和22年)、塩月賢太郎、藤田允、学YよりYMCA主事補に。世界YMCA同盟ストロング、北米YMCAバーネットが来日。9月東山荘で夏季学校開催。各地学生YMCAを訪問。「東京裁判」を市ヶ谷の法廷で傍聴。この年、6月片山哲社会党内閣成立。10月不敬罪廃止。
1948年(昭和23年)友愛学舎を辞し、松島正雄の図らいで衣笠病院に移る。2月長女泉誕生。末包と学Y訪問を続ける。WSCF、ベンクト・ホフマン来日。学生救済会を組織し池田、藤田が担当。
7月19~23日 第57回夏季学校開催、赤岩栄牧師の「マルクス主義とキリスト教」の講演が行われ、小宮孝と激しい討論があった。分団協議は、大學と専門学校・旧制高校・大学予科の3つに分れた。
この年も次の年も秩父宮が来られて庭で学生達と話し合った。学生達が遠慮のない質問をしたので、齊藤勇校長は後で学生達に注意を与え、宮家に「挨拶」に上がったが問題は何もなかった。
12月WSCF主催の「アジア学生指導者会議」がスリランカのカンデイで開かれ、YWCAから武田清子・山崎孝子・YMCAから池田と塩月が参加。当時一般人の海外旅行は困難で、占領軍(GHQ)のパスポートで出掛け、翌年3月3日横浜に帰った。Dリーパーはこの年(1948年)11月28日に来日したが、我々は既にスリランカに出発した後であった。
1949年(昭和24年)3月6日、学生部主事D.H.リーパーと初会合。
J.R.モット、10回目の来日。各地で会合あり。学生部では、神田共立講堂で「わが希望の根拠」と題して講演会を開催。(この題は東大YMCA植木光教の命名)
7月、第1回ワークキャンプ、学YとJ3(アメリカの大学生で日本に奉仕中の者)の合同プロジェクト。函館キャンプ(リーパー団長)と諫早キャンプに分れ、池田は諫早に参加、鎮西学院の校地整理をした。帰路、京都の学Y関係を訪問、雨に遭い、夜汽車で東京に戻る途中、高熱と激痛に襲われ、住居(調布市下石原、戦後3度目の住居)に戻り、そのまま倒れ、ダーギンの車で衣笠病院に入院。急性肺炎。入院5ヶ月、帰宅療養2ヶ月。この年11月同盟会館(神田三崎町)改修終了。
1950年(昭和25年)2月頃、病より回復し同盟に復帰したが、奈良常五郎が前年10月末にシベリアより帰国し、齊藤総主事は直ちに彼を学生部主事に復職させたので、学生部に席はなく、少年部担当に。
8月、東山荘でハイYキャンプを行う。キャンプファイヤーの時、感激し泣いて祈る者続出。世界YMCA同盟少年部主事R.ストロング滞日中。9月27日より少年部主事会を知多半島若松で開催。ストロングと池田はこの会に出席後、近江八幡・京都・大阪・神戸のハイYなどを訪問。池田は単独で、広島・松江・鳥取・京都・金澤・名古屋を訪問。
1951年(昭和26年)5ヵ年前進運動論始まる。5月GHQ青年運動担当 D.タイパー帰国(送別会)
7月23-日~8月5日、戦前からあった東京YMCA野尻キャンプが復活。「第6回YMCA国際年長少年キャンプ」が、世界YMCA同盟・日本YMCA同盟の両少年部共催で行われた。世界同盟からアラン・アンドリウス、日本側は池田が担当。太平洋沿岸諸国6カ国とドイツから15名、日本からは46名が参加した。9月中野区野方に家を購入、転居。10月18日アメリカYMCA視察のため、船で発つ。11月サンフランシスコYMCAを中心に、ハイY・キャンプ・オレゴン州ポートランドなど広範囲に見学。12月カンザス大學でStudent Volunteer
Movementの4年期大会に出席。日本に来ている宣教師が、どのように日本を紹介し、学生に献身を促しているかの現場を聴講。
1952年(昭和27年)1月~2月はペンシルバニア州に行き、日本のYMCA活動を紹介し、北米YMCA同盟国国際部の募金活動に協力。ケンタッキー州ではルイビルに長期滞在。ジョージウイリアムズ大學でPost Graduate Courseを取った。夏ミシガン州YMCA所有のヘヨウエンタ・キャンプのカウンセラーとして一夏働く。キャンプ長はクリフ・ドルーリー。さらにワシントンDCのYMCAを訪問。またD.タイパー、E・バーネットなどを訪問した。北上してカナダに行き、トロント・キングストン・オタワ・モントリオールなどの各YMCAを訪問。それからニュージャージーYMCA・イエール大學・ユニオン神学校・プリンストン大學・フェルプス一家も訪問後、ボストンに友人を訪ねた。アメリカだけのつもりであったが、日本YMCAからヨーロッパも回るようにと連絡があり、イギリス・ノルウェー・スエーデン・ドイツ・スイス・ジュネーブ(世界YMCA同盟)、・イタリー・ジェノバ・セイロン・コロンボ・インドのマドラスへ。それから西海岸のトラバンコアで日本から来た代表と「第3回世界キリスト教青年大会」に出席し1953年2月8日に帰国。この旅でニューヨークのロックフェラーセンターの万国旗の中に「日の丸」がなく、日本がまだ世界の未公認国であることを痛感させられた。
1953年(昭和28年)酒井哲雄が少年部主事として加わる。南良夫は京都YMCAにて、少年活動の豊な経験と見識を持つ良き協力者であった。2月12日から紀州白浜で全国主事会。その後ハイY関係の会合が続く。日本ハイY連盟常任委員会・近畿協議会・関東協議会・中・四国協議会・九州協議会・東北協議会の結成準備等。札幌YMCAの上田村次郎の要請で、札幌を視察、報告書を同盟総主事に提出。
6月30日、九州大水害発生。同盟はロングと池田の現地派遣と救済金50万円募金を決定。参議院で、緒方竹虎から九州の要人への紹介状を貰い、教団診療所で必要な医薬品を求め、ロング、淵田多穂理と共に東京駅を発つ。以後、門司・小倉・福岡・熊本のYMCAを慰問する。熊本最も被害甚大であった。8月17日―20日、全国ハイY大会(東山荘)。加盟校より出席150名。主題「我らの確信、我らの前進」8月30日、青森県主催「青年指導者協議会」にて講演。
9月2日母シズ、脳溢血で召天、78歳。
◆ 札幌時代42歳~48歳 「
貧乏だったが面白く、充分働けた。何をなすべきか 」
1954年(昭和29年)札幌YMCAより招請あり、3月28日一家で転居(南8条西11丁目)。4月同盟斉藤総主事・ロング・ヘイグ協力主事来札。資金協力を約束。ピッツバーグYMCAから会館建設費援助金2万5千ドルの約束を受ける。事務所は南大通り西6の道 衛生会館2階。建設用地は南11条西11丁目、石山通りに面して西側にあった。7月2~3日、第3回北海道夏季学校開催、於小樽商大。
7月17日大通り公園にて第1回少年自転車教室開催、40人参加。9月一般青年指導者対象に小集団指導法講習於独立教会。9月18日第1回常務理事会にて会館建設問題審議。9月26日、台風15号で洞爺丸沈没。学生部協力主事D.リーパー遭難。池田は前日旭川の学Yと市Yの集会に出席、信徒宅に宿泊、翌日その家の中庭の大木が倒れているのに驚く。札幌駅に帰ると上田村次郎が新聞を広げ、行方不明者欄に「米人リーパー」の名があるのを示した。そのまま函館に赴き、函館教会草間牧師の案内で、Hショーラック、Dダウンズ共に七重浜に行き、遺体捜索に当る。ストーン宣教師の遺体を発見したが、リーパーは不明。同盟からバックリー、大和久泰太郎主事が来て、遺体発見を待って、数日間有川桟橋に通ったが、後を池田に任せて東京に帰った。結局10月10日、日曜日9時頃、リーパーの遺体を霊安所に置いてあるとの電話があり、そこに赴いて遺体を確認した。リーパーは、9月22日夜、札幌YMCAを訪ね、同夜中川秀恭と3人で池田宅にて会食、翌23日池田一家と同盟近森主事と共に定山渓温泉に遊び、翌24日 旭川にグラッグストンを訪ねると言って別れた。これが最後の別れとなった。
1955年(昭和30年)バックリー来道、札幌・小樽・旭川訪問。同志社大学ワークキャンプ(テニスコート造り、山鼻講義所に宿泊)。サンフランシスコYMCAワークキャンプ来道(クリスチャンセンター宿泊)。会館定礎式、施工大成建設。11月21日ワイズメンズクラブ、チャーターナイト。
11月22日会館落成、記念講演中川秀恭北大文学部教授。
関西学院グリークラブ演奏会(北星学園講堂)
1956年(昭和31年)開館1周年記念として「働く少年」を会館に招待。アーチェリー弓場完成。
市民クリスマスを教会連合と共催(市民会館)。少年柔道「三四郎クラブ」始まる。聖公会北大学生センターで、バーンハート・アンダースン著「聖書に展開されているドラマ」をテキストに勉強会開催。
1957年(昭和32年)「中学浪人」のため、高校進学コースを2クラス開設。発寒川キャンプ開催。
北海道教育大学にて「聖書研究会」指導。会館にてキリスト教結婚式と披露宴を始める。また葡萄ジュース製造・販売やバザーを行う。佐古純一郎文芸講演会開催(札幌商工会議所ホール)。
以降1960年(昭和35年)までの状況を書くことは読者には煩瑣であり、札幌YMCAは大体このような状況であったので省略する。
1960年(昭和35年)安保改定に反対する国民運動が起こり、札幌でも条約廃棄を願いつつ行進。
12月31日をもって札幌YMCA総主事を大和久泰太郎主事(着任は10月)に引き継ぐ。田中義宣主事は4月東京から着任。松野和夫主事補は1956年東京YMCAからの応援主事。山下政一主事補は1956年採用。この年7月齊藤惣一が天に召された。(札幌在任中4度転居し、公宅に入居)
◆ 同盟時代48歳~60歳 「
旧家としてのYMCA改造。何をなすべきか 」
1961年(昭和36年)1月、日本YMCA同盟、総主事に就任。前任者永井三郎は世界同盟アジア駐在主事に。同盟委員長北村徳太郎。8月の全国YMCA理事長会議を起点として、「青少年教育施設拡充計画」のための募金活動が始まり、寄付金の損金指定を受けた上に、年金福祉事業団からの借入、「二号交付金」などを用いて全国のYMCAで、この60年代に施設拡充が行われた。池田はその募金事務局長として募金の先頭に立った。(損金指定に当っては「YMCA会館建設」では通らず「青少年教育施設拡充」となった) この募金は6億4千万円の目標に対し実績4億3千万円(新編日本YMCA史による)並行して同盟財政の再建構想を実施。即ち、東山荘の全面改築、北海道チミケップキャンプ場新設、中小YMCA振興資金の新設、同盟事務所の移転、研究所の拡充を行い、その資金に充てるため西神田同盟会館、富士見町の北米YMCAの土地、北神保町の中国YMCA跡地、を売却する計画であった。この中東山荘の改築は1965年開催の世界同盟総会に備えたもので、齊藤記念館の新築と本館の全面改築という大規模なものであった。
11月レイリーダー協議会は「白紙化」決議、事実上解散。
1962年(昭和37年)3月沖縄YMCA設立、5月奈良YMCA設立。
10月「全国青少年教育施設協力募金後援会」発会。
1963年(昭和38年)6月同盟成立60周年記念総会、同月寄付金の損金指定を受ける。
9月前橋YMCA設立。
1964年(昭和39年)1月池田は同盟総主事として戦後初の韓国YMCAを訪問。35年間の日本支配が及ぼした諸事態について「赦し」を乞い、韓国と日本のYMCAの新しい関係樹立への決意を表明。
3月名古屋YMCA新館完成。9月大阪YMCAアベノ新館完成。11月横浜YMCA新館完成。
11月熊本YMCA体育館完成、12月姫路YMCA新館完成。同盟副総主事に大和久泰太郎。
札幌YMCA総主事に海老沢義道。
1965年(昭和40年)3月神戸YMCA西神戸ブランチ会館完成、東京YMCA新体育館完成。4月それまでの「六大都市総主事会」を「全国YMCA総主事会議」に改組。8月東山荘でアジアで初の世界同盟総会を開催。総員420名参加。食費・宿泊費・会館使用料等全面支弁。9月富山YMCA、熊本YMCA各新館完成。同盟委員長北村徳太郎から湯浅恭三に交代。
1966年(昭和41年)3月東京YMCA新館完成。4月広島YMCA新館完成。5月「国際事業委員会に関わ
る覚書」制定。8月「ハイY3ヵ年前進運動」開始。
奈良信君の設計で自宅を清瀬市に建築。東京に戻って3度の転居後のことである。
1967年(昭和42年)3月熊本YMCAは同盟に実態調査を依頼、5月調査の結果、8月池田総主事の熊本
総主事兼務を決定、11月赴任。財政問題解決に2年を要した。この年より国際YMCAキャンプ
カウンセラープログラム(ICCP)始まる。
1968年(昭和43年)3月「都市部強化方策委員会」を設置、協議を進め、8月「方針」を決定。
4月同盟事務所の西早稲田「日本キリスト教会館」への移転を決定。5月全国の専門職員採用共同試験を開始。10月池田総主事の熊本Y兼務を68年度末まで延期することを決定、11月大和久副総主事の同盟総主事代行。
1969年(昭和44年)7月池田総主事の熊本Y兼務終了。10月宮崎幸雄世界同盟に出向、ヴェトナムフィー
ルドサービス、デレクターとして派遣。同月同盟委員長、湯浅恭三から松前重義に交代。
1970年(昭和45年)1月学生YMCAは全国組織を解散。4月藤森元を世界同盟アジア地域主事として派遣。6月奈良YMCA会館、北九州YMCA会館完成、7月大阪北YMCA会館完成。10月同盟事務所浅草橋から西早稲田キリスト教会館に移転。11月「青少年奉仕賞」を制定、第1回表彰。
1971年(昭和46年)2月熊本YMCA東部センター完成。4月札幌YMCA会館完成。5月湯浅恭三アジア地域委員長に(1979年まで)11月千葉YMCA設立。12月前橋YMCA会館完成、同月キリスト者高校教師の会結成。
◆ 香港時代60歳~62歳 「
はじめての牧会・アジアの友たち。何をなすべきか 」
1972年(昭和47年)3月同盟総主事を定年退職。アジアYMCA研究所副所長、ホンコン・クリスチャンフェローシップ牧師として夫妻で大きな期待を持って赴任。(大和久泰太郎同盟総主事に就任。)
香港では、YMCA Institute 副所長としてアジア地区各国YMCAからの主事候補生
たちの研修に従事し「キリスト教思想」を担当。併せてHong Kong Japanese Christian Fellowshi(超
教派の教会)の牧師。2年間6名の受洗者があり、2箇所の教会学校を運営、日曜礼拝、家庭集会、夏季リトリートや日韓教会交歓会を行い、香港キリスト教連合会にも参加。
◆ 相模高校時代62歳~73歳「
はじめての校長・愛と畏れと。何をなすべきか 」
1974年(昭和49年)日本に帰国。松前重義氏の縁で東海大相模高校校長に就任。その後1985年まで11年間校長を務めた。初の学校教育の場でしかも責任者となり、YMCAの青少年とは異質のものを感じる。大学受験のない大学付属校のため、クラブ活動が活発で、特に柔道と野球は全国トップレベルであった。高校の授業では建学の精神を「現代文明論」として毎年テーマを変え、3年生12クラスを二つに分け、それぞれ半年教えた。毎月曜日朝の全校朝礼や式典などの時に話した講話を70歳の時「若人よ」と題して、東海大学出版部から出版、霞ヶ関ビルの校友会館で出版記念会を開催。校長10年目に、「ヨーロッパ学術センター」への転任を松前総長に申し出て、11年目に実現。
◆ デンマーク時代73歳~75歳「
歴史の遺産と自由。何をなすべきか 」
1985年(昭和60年)5月、東海大学ヨーロッパ学術センター所長としてデンマークに夫妻で赴任。日本文化の紹介と学術交流が主な任務。センターはコペンハーゲンの北方、ハムレットの城として有名なHelsingerとの中間に位置し東はスエーデン半島との間のオアソン海峡の岸に立つ。1985年の「日本学」会はパリのソルボンヌ大学で開催され参加。日本文化の紹介としては、コペンハーゲン大学を会場に「雅楽の演奏」「日本書籍展」を行った。デンマークでワイズメンズクラブ国際大会あり、日本から参加した友人もセンターを訪ねてくれた。在留邦人の「北友会」なる友好クラブがあり、商社・日航・大使館関係者などとの交流もありYMAC時代とはまた別の世界があった。
1986年(昭和61年)4月チェルノブイリ原発事故があり、道子夫人は直ちに反応。コペンハーゲンでもバスの車体に「チェルノブイリは2000キロ、バルセベックは20キロ」と注意が貼られ、海峡を隔てて20キロのスエーデン原発に注意せよとの反原発運動もあったが、事故直後におけるデンマークのメディアはすこぶる反応が鈍かった。ちょうど当時1歳と3歳の孫が来ていたので、道子は教育委員会に電話。子どもに被害はないか、外遊びは安全かをたずねると大丈夫心配ないとの返答に驚く。
東海大学ヨーロッパセンター開館15周年を記念して、宿泊・研修施設棟を建設した。「日本学」は欧州各大学に古くからあり4年毎に研究発表が行われていた。その中間期の2年目に東海大学が主催して「日本学」の発表会を開いて欲しいとの要請があり開催する。センターの三千坪の庭園には茶室が2ヶ所あり、在留邦人のお茶の先生がお手前なども披露した。私も日本を出る時に半年間茶道の手ほどきを道子の姉より受け、当日は彼女の心づくしの着物や十徳を着用し通訳した。庭のさくらは見事で在留邦人の交流の場でもあった。図書室には欧文の日本に関する書籍があり利用されていた。教会はコペンハーゲンの英語の教会に出席。献金は免税される事に驚く。ロータリークラブ、ワイズメンズクラブの会員として、デンマーク人との交流がありさまざまなことを学ぶチャンスに恵まれた。道子の生け花教室も喜ばれた。
◆ これからこそ働ける75歳~95歳 「
自分で選ぶボランティア。何をなすべきか 」
1987年(昭和62年)帰国。二度目の定年退職。清瀬に帰り今後の生き方はボランティアとして社会に貢献することに決める。上海時代のことを書き残す必要と使命を感じて資料収集に掛かり、ようやく1996年6月12日「曇り日の虹」を出版。
1995年 戦後50年:清瀬市議会に不戦と謝罪の決議をさせる。公立中学で平和についての講義をする。
2005年
戦後60年を記念して「私の戦争と兵隊ものがたり」と題して小冊子をだす。(協力者:河西哲弥氏)
◆ まだ何か出来るはず95歳~100歳 「キリスト者とは・平和の実現。何をなすべきか」
2008年
日本キリスト教文化協会から、「キリスト教功労者」として顕章を受ける
2010年 11月16日妻道子昇天93歳4ヶ月。
2011年 100歳記念に日本国からは総理大臣名で銀杯、東京都からは都知事名で江戸切り子ボンボニールが贈られた。この年末には小さな手術が2度有り、満100歳を目前に自らの老いを感じる日々だった。
2012年
2004年から膀胱癌をかかえていたが、2月の内視鏡検査では問題なしとの診断を得る。目の細胞も若く「20年は問題無し」との診断有り。健康な体を神様に感謝しつつ本日を迎える。感謝。
<その他のボランテイア>
・ 日本友和会 会員、理事、書記長など、現在も会員として所属。
・ 社会福祉法人 興望館 後援会長 現在は後援する力はないが心の応援団長のつもり。
・ 江古田教会 会員として、また牧師不在期間は代務者として1993年に10ヶ月、
1999年4月より1年間奉仕。
・ 1995年11月「日本YMCA史研究会」の創立理事長となる。
・ この会はその後、1997年に「YMCA史学会」となり、
・ 日本YMCA同盟結成百周年「日本YMCA史」の編纂を委嘱され、2003年3月に刊行。
・ 現在は会員。
・ 清瀬「戦争を語り継ぐ会」に協力。
・ 青山学院校友会神学部同窓会「エルビス会」会長
・ 平和、反戦、反核、反原発運動にかかわりながら現在に至る。
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