100歳になってもこんなにしっかりされているんだ。素晴らしいなあと思います。みなさんにも、感動を御福分けいたします。
本日は私のために大勢の皆さまがお集まり下さり、身に余る光栄と感謝申し上げます。
先程来 斎藤総衛さんのお祈りに始まり、斎藤實さんの挨拶、宮崎幸雄さん、カンムンキュウさん、パク・サンジュンさんにお祝いの言葉を頂戴し、酒井哲ちゃんの乾杯の言葉もあり楽しい時は過ぎています。
いただいた、どのメッセージもありがたく、昔に比べるとずいぶん小さくなったこの体なので、身の置き所がないと言う気持ちでいっぱいです。
ここに示された、皆さまからの暖かい友情にこころから感謝申し上げます。
自分でも信じられないのでありますが、この3月15日に100歳を迎えました。
振り返ると「あっという間に100歳になっていた」という感じです。
私は1912年(明治45年)に、キリスト教信仰を持った両親のもとに生まれましたが、
信仰生活を強いられると言う事もなく、ここにお集まりの皆さん同様に、さまざまな悩みを持ったまま青春時代を過ごしました。そして商船大学を目指しましたが入試に失敗したのです。そんなある日、私は路傍伝導の声に導かれ、さまざまな偶然の出会いがかさなり、また人生の先達のあたたかい愛情に育まれ、ささえられてとうとう関西学院大学
神学部に入学。というまさに神様のご計画による人生最大の選択をしたわけです。
その後旧約の勉強をもっと深めたいとの思いで、青山学院の神学部に転入。戦争に向かいつつあった日本の中で、「中国の人の足を洗いたい」と言う強い思いに突き動かされました。そして清水安三さんとの素晴らしい出会いに恵まれ、とうとう北京へ出かける事が実現したのです。その後の私の人生の曲がり角にはいつも安三先生の祈りと励ましがあったことを感じています。
さて話を戻しますが、北京に渡り、中国語の勉強をしながら、今後について模索している私に、神戸YMCAの奈良伝さんが声を掛け「YMCAで働いてみないか」とお誘い下さったのです。これも大きな出会いでした。奈良さんとの出会いがなければ、いまの私は存在しないからです。思い返しても、これ以上楽しい人生はなかったと言い切れるほど,YMCAでの私の人生は楽しいそして有意義で素晴らしい方々との出会いの連続でした。この仕事に、かかわる事が出来た事を、いま誇らしく感じております。
そしてまた、中国では道子との結婚がありました。その後二人の子どもの父親になることが出来ました。父としてどうだったのか、自信はありませんが「自分らしく生きなさい」と言う事は伝えたつもりです。いまは同じ神さまにあって、互いに支え合う関係になれたことは大きな喜びありです。今日この会場に、お集まりくださっている皆さまとも、さまざまな時代に出会い、同じキリスト教信仰に支えられ,YMCAの仕事を通じ、またいろいろな団体のメンバーとして、その活動のなかで時には互いに論じ、悩みながらもいっしょに進み、本日までその友情をも持ち続けていただけたことは、奇跡のようなことであり、大変ありがたく改めて感謝申し上げる次第です。
私個人としては、世界の平和や人権・核廃絶・沖縄基地返還・原子力発電所廃止などの運動を推し進めてきたつもりですが、振り返るとその力は弱く、なぜもっと理念だけでなく目に見える行動として、なりふり構わず大きな声で熱く語り、周りの人をその仲間に引きずり込むような情熱を自分が示すことが出来なかったのか反省する次第です。
私に隣にいた道子は・・・というよりも常に女性は、自分の信じるところにまっすぐで
恐れを知りません。隣の韓国はじめ世界ではもうすでに、女性があらゆる社会の組織で
方針を立案し、決定するポジション付きその能力を遺憾なく発揮し活躍しています。
今後日本でも女性が正しく評価され活躍することが出来るように、我々男性が強くサポートする必要を痛感し訴えたいと思います。
話を戻しますが、私はその後北京から強制退去。しかも「敵産横領」という罪で追い出されたのです。そして単身上海に戻り上海YMCAに勤務。終戦の年の5月に現地召集で2等兵として、戦争に図らずも4ヶ月ほど参加しました。「なぜ素直にその事を受け入れたのか?」いま振り合えると自分が受けてきた教育が大きかったと思います。ベトナム戦争が始まり、アメリカの学生が「良心的・兵役拒否」を表現した時に、頭をガツンと殴られたようなすごいショックを受けたものです。「なぜ自分にはこのような発想がなかったのか」そう自問すると、やはり答えは教育だと思うのです。質問が許されない学校・自分の意見が言えない環境は、日本社会全体にあります。今回の原発事故とその後の政府の対応やメディアに、あの戦争中と同じ空気を感じた人は多いはずです。経済を優先し人間を粗末にした結果が原発の存在であり、その考え方を根本から変えることが出来なければ、原発を止めることは出来ないのではないでしょうか。皆さまの協力が必要です。
「二度と同じまちがいが繰り返されないように、みんなで社会をかえていきましょう!」
また話を戻しますが、敗戦後中国から帰国。同盟の主事として、ハイY・学Y・少年部。そして札幌Yの創立の関わり、思いがけなくも日本YMCA同盟総主事を拝命しました。在任期間は12年。自分なりには新しい風を吹き込んで働いたつもりです。
思い出深いのは、札幌から1961年東京に戻った4年後、ちょうどそのころの同盟は東山荘建設のために同盟会館の売却があり、東山莊の改築、斎藤記念館の建設が進行中でした。私は以前からの胃痛に絶えかね、検査の結果胃潰瘍で胃の八分の一を残し切除しました。皆さまご存じの、松島ドクターによる手術でした。かれは癌で亡くなられましたが、上手な手術のおかげで何の支障もなく順調に回復したのです。そして8月に新しい東山荘で世界YMCA同盟総会が行われたのです。神様に守られ、新しく生まれ変わった手応えがありました。
熊本Yと同盟総主事の兼任総主事時代にもさまざまな出会いがあり、忘れがたき日々です。当時同盟委員長だった、北村徳太郎先生は強い味方であり、素晴らしい人生の先輩でした。徳太郎先生とも楽しい思い出がたくさんあります。当時熊本問題をどう進めたらよいか暗中模索の私でしたが、あの時に熊本YMCA会館の一室で、寝起きを共にし働いた、浜田一雄君も残念ながらもうすでに亡くなってしまわれました。毎朝彼が歌った「♪やーるーとおもえーばーどこまーでやるさ。吉良の二吉は男じゃあないかー♪」を懐かしく思い出し、今では私も口ずさむほどです。後を任せた吉村君と今日久しぶりにお目にかかれてうれしく思っています。
また札幌時代に苦楽を共にした、松野くん、山下くんもすでに天に召されてしまいました。あの頃は給料もおくれがちで、年末には借金取りに出会わないように、3本立ての映画を見て時間を過ごそうと、屯田通りの古い安価なミトキ館に家族で出かけたりもしました。
東京育ちの道子は、北国の道に足を取られ 滑って転んだりしましたがまだ若く、ケガなど無縁でただおかしく笑い合ったりしました。札幌時代の最後の年に、初めての渡米した1951年以来夢だった、「国際的なキャンプ場を日本に作りたい」という思いを実現すべく、北海道庁から99年間借りたチミケップでしたが、その後について、恐らくなかなか困難であろと思われて、とても心配なのですが、どうしたことか 私にはまったく情報が伝えられていないことが気がかりです・・・・・。
香港ではじめて牧会をしたこと。アジアYMCA研究所副所長。またその後松前重雄氏に請われ、東海大学付属 相模原高等学校(その後附属中学も作る)の校長を務めたこと。それらの時代についてもエピソードは山のようにあります。
勤め人としての最後の仕事はデンマークにある東海大学付属ヨーロッパ学術センターでのセンター長でした。どの時代もあっという間の出来事です。
話が長くなりましたが 最後に「私のお願いと決意」を述べたいと思います。
昨年3月11日。私たちが恐れていた原発事故が現実となり、政府の無策と重なりいまだにその被害を拡大し被災者も我々も、目に見えない放射能に翻弄されています。その上政府は脱原発ではなく、新たな原発の建設を進めようとし、それを海外にも輸出するというのです。この政府と経済界にあきれてしまいます。日本という地震列島の上に54基の原発が存在しているだけでも危険この上ないことに、なぜ国民は気がつかないのでしょうか。
いや、気がついても原発がないと文化的生活が出来ないと本気で思っているのかもしれません。電気は足りていますし、大丈夫であることをみんなに知らせ仲間を増やしましょう!
日本に地震が起きて世界中に放射能をまき散らすことがないように。
この関東に強大地震が起きるとの予想が発表されています。点検作業のために休止している原発が、二度と稼働しないように力を合わせてください。私もメディアに投書したり、手紙を出して頑張るつもりです。もちろん暖かくなれば娘たちと車いすでデモにも参加する覚悟が出来ています。原発は原爆と同じであることの認識を強めてアピールして下さい。これは地球の問題で有り、平和の問題です。今や我が国には10トンものプルトニュームが原発を稼働させるなかで生まれてしまいました。長崎に落とされた原爆のなんと1250発に当たるのです。我々の本気が試されています。
オーストリアにはすでに憲法で原発を禁止し、ドイツでは原発推進を止める決議がされました。日本も続くべきです。どうぞ、韓国からも日本の原発は何かあれば韓国の問題だと反対の声を上げて下さい。世界中の方に日本の原発の廃止をお願いしたいと思います。
繰り返しますが地震国で原発を持つことは無謀です。皆さまもそれぞれその働きの中でさらに平和を実現するためにご尽力下さるように願ってやみません。
そしてどうぞ清瀬の我が家にお遊びに来て下さい。いつでも歓迎します。
本当に今日はありがとうございました。
神様の豊かな愛と祝福が皆さまと、その活動の上に豊かにあることを祈り
お礼の言葉と致しますます。
2012年3月23日池田 鮮
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